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「光の中の祖国」(=続「私の居場所」)


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牢獄のような境遇の中にあるウイグルの親子

 

 

 


光の中の祖国 on Vimeo

 

 

「光の中の祖国」

 

アッラーよいつまでなのですか

私を忘れているのですか

とこしえにこの痛みは続き悲しみを抱き続ける

 

アッラーよいつまでなのですか

私を忘れているのですか

とこしえにこの痛みは続き悲しみを抱き続ける

 

いつ私は行ってあなたの顔を見ることができるのか

光の中に祖国はいつ立ち現れてくるのだろう

 

アッラーよいつまでなのですか

私を忘れているのですか

とこしえにこの痛みは続き悲しみを抱き続ける

とこしえにこの痛みは続き悲しみを抱き続ける

悲しみを抱き続ける

 

作詞・作曲 historyninjin 2022/1/8

 

「私の居場所」について縷々書き記すことを通して昨晩心の中に沸き上がってきた言葉とメロディーを紡いで一曲の歌にしました。「光の中の祖国」です。

画像にはウイグル(東トルキスタン)の国旗を配しました。ウイグルに行ったことはありませんが、私にとってそこに胚胎され育まれてきた詩の文化に触れて、第二の祖国のような気がします。なぜそう感ずるのか、本人にもよくわかりません。私の作り出す音楽がその風土と驚くほど符合するからかも知れません。ま、このまま導かれるままに任せて(?)暫く行ってみることにしようと思います。

 

神を呼ぶとき、キリスト教的に「主よ」という言葉を使おうとすると、なぜか歌を通して表したいことと違和感を生じてしまいます。それに対し、ウイグルの詩などに出てくる「アッラー」を使うと歴史の経緯などから言ってぴったりとくるので、アッラーを使わせていただきます。

また、歌の中の「祖国」という言葉は、将来独立したウイグル(東トルキスタン)の姿を思い祈りつつ詩の中に置いた言葉です。

独立については、その思想的視座を与えてくれる詩を挙げるとしたならば、前にも一度書いているのですが「聖なる儀式」を挙げることができます。少し長い詩ですが是非耳を傾け、そこに私が書いた解説にも目を通してください。

https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2021/05/30/092717

 

ヒル・ハムット・イズギル氏の詩の中に「川辺にて」(原題は「川」)という詩があり、それにも作曲してあるのですが、タヒル氏はアッラーに向かって「ああ  アッラーよ  独り  いかに耐えらるか」と呼びかけています。詩の意味は抽象的で判読するのが難しいのですが、そのような心情世界があるのだということは理解できます。タヒル氏の詩だけでなく他のウイグルの詩人の方の詩にも、時々同じような世界が見られます。

私はこれはなんだろうか?とずっと思索しています。日本文化の根底にもこういう世界があるのだろうかと思って縷々歴史を紐解いて思索するのですが、この世界ばかりは日本文化には希薄だなという感覚を懐かざるを得ません。(直接的に表面には表れないという意味、間接的にはそれを理解することができる繊細な世界は所々に見られるように思いますが・・・) 詩を通して様々なことを学びつつあると言ったところです。

 

下記にタヒル・ハムット・イズギル氏の「川辺にて」を置いておきます。


川辺にて on Vimeo

 

◆川辺にて◆
(原題:「川」)

 

静かで清涼な水面に
一片の黄色と一瞬の熱風を見た
重みは私の肩にのしかかった

静けさは昨日から来た
重みは水に似る

ああ アッラー
独り いかに耐えらるか

緑の川岸にいても
心は全く空っぽ

 

原詩 タヒル・ハムット・イズキル
(詩集「聖なる儀式」ムカイダイス+河合眞編訳より)
作曲 2020/6/4 historyninjin 

詩の一部に手を加えました・・・
3行目「重みは」→「その重みは」
8行目「川岸に」→「川辺に」
このことから題名を「川辺にて」としました。

 

 

「私の居場所」へのリンク

https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2021/10/17/125247

「私の居場所への随想」へのリンク

https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2022/01/06/070410

「もう一つの私の居場所への随想」へのリンク

https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2022/01/07/023942