◆プロローグ
前に書いた「私の居場所」への随想の延長上に、もう一つの「私の居場所」への随想をここに置いておこうと思います。
前に書いた随想の末尾に私は「いつ、私は行ってあなた(神)の顔を見ることができるのだろうか」と書きました。
書かざるをえなくてそこに書きおきました。
本当は書くつもりはなかったのですが、もう一人の私が私の中から現れて書いてくれと言った気がしたのです。最初ほんの少し躊躇しましたが、押し出されるように書いておくべきだと思い、書きました。
この言葉の原典(根拠)は旧約聖書にあります。旧約聖書の詩篇第13篇。そこにはこうあります。
主よ、いつまでなのですか。
とこしえにわたしをお忘れになるのですか。
いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。
いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に悲しみをいだかなければならないのですか。
いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。
わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、
わたしの目を明らかにしてください。
さもないと、わたしは死の眠りに陥り、
わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、
わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。
この詩篇の作者はダビデと伝えられていますが、作者の願いは最後に神の顔を見ることということになります。原典には「いつ、私は行ってあなた(神)の顔を見ることができるのだろうか」という表現はないのですが、いつの間にか私の心の中で独自に翻訳してそのように書いたもののようです。(^_^)
◆問題提起
今、私はふと思う。果たして「神の顔を見れた」ならば全ては解決するのだろうかと。おそらく、全ての解決はされないのではないかという思いを否定できません。聖書の限界は、問題の解決を黙示録的な世界に置くことによってなされるとする価値観(思考体系、パラダイムとも言う)にあると思われます。形而上学的世界に問題の本質を置こうとする無意識的な力がどこからともなくかかってくるのです。
新約聖書になるとそれがもっと顕著になる傾向があります。
聖書に触れたのは19歳の大学1年生の時でした。心に自己の限界と終末感を抱えていた私は下宿の扉に挟まっていたキリスト教会の案内のチラシを見て、次の日(日曜日)自分からその教会に足を運んでいました。
言われるまま最前列に座り、礼拝を受け、礼拝が終わって帰ろうとすると、聖書を持っていますかと聞かれ、持っていないと答えると、買いませんか?と言われたので、すぐその場で買い求め読み始めた。その後何度か教会に行って礼拝を受けた。
正餐式がありパンとぶどう酒が回ってきた。教会の人はおそらく私が素直にそれを受けると思っていたようだが、私はそれを拒んだ。意味を理解できていないことに唯々諾々と従うことはしたくなかったからだ。少し慌てたようだったが担当の方はすぐにパンとぶどう酒を隣の方に運んだ。
地域で開かれる信徒10人ほどの聖書研究会にも何度か出席した。神がおられること、神が天地万物全てを創造されたこと、人間始祖アダムとイブが神の戒めを破り堕落したこと、現代は終末であること、神により天国が準備されていること、その天国に入るには選ばれた者しか入ることはできないこと・・・概ねキリスト教の全般的な内容に触れた。
終末にある私たちがなさなければならないことは、それへの準備が最も急務で重要なことであること、そのために洗礼を受けることから始めなければならないことが説かれた。
私は質問した。
私自身はその道を行って救われるということはわかりましたが、私より前の先祖は、当然そのようなことは知らず、洗礼など受ける機会もなく、この世を離れ旅立って行きました。彼らはどうなるのですか?と。
いろいろ説明してくれるのだが、結論はどうやら救いにあずかることはできないという結論になるようだった。
ある夜、下宿で一人で目をつむって祈って見た。すると丸い光の玉のようなものが頭の上に降りてきて、肩から胸に、胸からお腹にそして、最後に足のほうに私を包んで去っていった。とてつもなく温かく、平安な思いが溢れ、私をすっぽりと包んでくれた。ものの数分間のことだった。教会の人に話した。「ああ、それは聖霊ですよ」とのことだった。どうやら私は神に愛され祝福されているとのことだった。そして、洗礼を受けましょうと勧められた。
断る理由が思いつかなかったので承諾し、1カ月後に洗礼を受ける約束をして別れた。が、結局は私は私の納得できる解を見つけるために、洗礼は受けなかった。かといって聖書を手放すこともしなかった。内村鑑三が説いたように無教会の単立の個人として、私が納得のできるものを求めて、私の道を行こうと思い、彷徨いながらやってきた。
いつ私は行って、あなた(神)の顔を見ることができるのだろうかという問いかけは、自分に対して投げ掛けた問いだったということになるわけです。
全ての人が同じ道を行けなどと言うつもりも、思うつもりもありません。ひとりひとり、自分の「居場所」を求めてそれぞれに歩んでいくべきもののように私には思われます。
しかし、ウイグルの問題にぶつかって、そうとばかりも言ってられない深刻な現状を目の当たりにして、私は困惑しました。何かできることはないだろうか、と考えるようになったのです。答えはまだ出ていません。
おそらく「答え」が出るのは、ウイグル(東トルキスタン)が独立を回復した時だろうと思います。そこが歴史の時間の結接点となって、その後も様々な問題は継続するでしょうが、その所から解かれていくように思われます。
◆結び
「私の居場所」は、タヒル・ハムット・イズギル氏だけの居場所ではなく、誰でも、私たち全てにとって「居場所」とは何なのか、どこにあるのか、今の現状の中での居場所はどこに定め、どこに置いたらいいのか、これから私たちはどの方向に向かって歩んで行ったらよいのか、を考える縁(よすが)としての「居場所」なのだと私は思います。
そういう意味で「私の居場所」を現代社会に提示し、いろんな方のご意見や考えをお聞きしたいものだと思っています。
2022/1/7記 historyninjin
この投稿の前の投稿「私の居場所」への随想(詩の解釈)↓
https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2022/01/06/070410
「私の居場所」(初投稿)↓
https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2021/10/17/125247
追記)
上記の文章を書いた後、記憶を辿っていくと「いつ私は行って神の顔を見ることができるのだろうか」という表現は、詩篇の13篇ではなく、42篇「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌」の中に出てくる表現でした。だいぶ頭が鈍ったようです。(^-^)/
でも、時間をかけるとちゃんと思い出すところがすごいでしょ。(^_^)
今度はいつか、古事記の話をしますね。(^^ゞ
「光の中の祖国」(=続「私の居場所」)↓
https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2022/01/08/125236